生きづらさを感じている皆さん。「生きる意味」なんてないですよ

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生きる意味や価値を考え始めると、我々は気がおかしくなってしまう。生きる意味など存在しないのだから
ーージークムント・フロイトーー

掲題の通りでございます。

この一年くらい「なんで生きてるんだろう」「なんで働いているんだろう」と数えきれないほど考えを巡らしていまいたが、やっぱりこの結論に落ち着きました。

それはやっぱり、「生きる」という事に対して大変さを感じているから考えてしまう問いなのだろうと思います。

なので、「『生きる』を問う『生きづらさ』」「生きる理由は構造上存在しない」「その上で伝えたい事」の順番で書いていこうと思います。

『生きる』を問う『生きづらさ』

私は小学生の時に多発性脱毛症になりました。それが尾を引いて、高校時代に不登校になるくらいには気に病んでいました。

一生忘れられない出来事があります。中学時代に私は野球部に所属していたので。『五厘』と呼ばれる剃髪の一歩手前の頭が青く見えるような髪型の時期がありました。

凄くハゲが目立つおかげで、ある日、対して仲良くもないクラスメイトに、まるでボタンを押すように、ハゲの部分をポチられた記憶があります。私は一瞬でそいつが嫌いになりました。でも、大事にしたくなくて黙っていることしかできませんでした。

この時代の、思い出や人の目というのは忘れられないものでして。一種のトラウマになっています。

人の目を気にして生きる癖は多分死ぬまで続くでしょうし、私は未だに後遺症に苦しんでいます。美容院には恥ずかしくていけないですし、隠すために髪型も自由にすることができないと感じています。風が吹けば気になってしまい、出歩くという事は自分にとって気楽なものではありません。

それらを隠して付き合ってきた人達にいつバレて指摘されるか不安です。正直に言って生きていく勇気もありません。先に情報を与えたならば、却って、微妙な変化な目がいくものだと思ってます。異性関係にもポジティブな影響をもたらすとは思えません。

よく創作では正直に告白することの良さが描かれていたりしますが、正直に生きていくことのデメリットは誰が責任とってくれるのだろうと思ったりします。

正直なところ『常識』や『普通』の範疇に収まりたい。常に解決しない悩みがある人生というのは『生きづらさ』を生み出す元になっていると思います。

その『生きづらさ』がたまに『生きる』という事に対して疑問を投げかけてくるわけです。

日本で生まれた時、構造的に『生きる意味』は存在しない

生きる意味はあると多くの人が感じていると思います。

それは、どのように手に入れましたか?

 

命は、親のエゴにより生まれ

憲法の「教育の義務」により育てられ

教育が終わった途端、労働の義務や納税の義務を負わされるわけです。

親のエゴによる生誕

残念ながら我々は生誕時に使命を持って生まれてくる訳ではありません。

親父の「ヤリたい」か母の「生みたい」かは知りませんが、親の欲求の果てに生殖活動が行われ、上手くいった結果我々が生まれてくる訳です。

そうです。欲求の果てに我々はborn in the earthなわけです。高尚な実存理由などありゃしません。

憲法が保証する教育の義務

我々は生まれてしまいました、それと同時に憲法により親には教育を受けさせる義務が課せられます。

そうです。国に定められたレールに乗っ取り、我々は義務教育を受けるのです。

生まれてしまった我々は、気付いたら強制的に教育機関にぶち込まれているのです。

社会ぐるみの洗脳です。親の都合で生まれ、親が義務を果たしているだけなのに、育ててやった感を出してきます。いやいや、こっちは生きてやってるんだと改めて反抗心がわき上がる所です。

反抗期は、自我が芽生えてきて、システムやレールに違和感を感じたからこその無意識の反射として起こるのではと疑いたくもなります。

そして来る「勤労の義務」「納税の義務」

なんという事でしょう。教育カリキュラムを終えたと思ったらよくもわからぬ義務が発生します。GDPや社会の福祉のために必死に働けというのです。

えええ。

お前の人生だお前の好きなように生きろ
働かなければ生きていけないよ
大人なんだからしっかりしなさい

えええ。

急に自由意志で生きてきたような扱いを受けます。自由と責任の名の下に社会に放り出されます。

 

そうです。『欲求』と『義務』の果てに育てられ、生きていく我々に、『生きる理由』なんてありません。

確か有名な哲学者に4年ほど『生きる意味』について考える事に専念して、結局「生きる意味などない」という結論に至った人がいたはず。

だから考えることは無意味です。

 

でも、そんな皮肉な事を書きなぐった私ですが、伝えたいことが大きく2つあります。

『生きる意味』はないが、『生きていく理由』は創れるし、生まれる。

『生きていく理由』を創る

『生きる』という事に疑問を持たずにすんでいる人は、『幸せになりたい』をもっと具体的にした欲求で動いていると思いますが、我々には『生きるに足る』理由が必要なんだと思います。

それは、自分に由来した唯一無二のものがいいじゃないかと思っていて、その一例として『生きづらさ』を抱える原因の根本的な解決を目指すのがいいんじゃないかと思ってます。ちなみに自分はそれを『生きていく理由』にしています。

一概に言えないので是非改めて考えてみてはいかがでしょうか。

ありきたりにはなってしまいますが自分の過去を改めて問い直す新しい事をして創りだすか。正直どちらかだと思います。

新しい事の例として1つあげると、旅行に行くことですかね。一人旅です。金がなければチャリ旅でもいいんじゃないでしょうか。偏見を取るような旅を通して世界を見た時に、改めて人の営みや自分の感情、死生観、自分が取り組みたい問題が浮かび上がってくる可能性があります。

もちろん自問自答や懐古もいいと思います。かつての出来事を改めて思い出す時、人は違った感想を持ち、新たな問題を見つける事もあるでしょう。私はこっち側ですが、堂々巡りしがちなので絶対的に文字として残しておくことをオススメします。

メソッドがあるなら正直教えて欲しいです。。。

『生きていく理由』は生まれる

もしですよ。

あなたが、何もない本当にどうしようもない60年を過ごしてしまったと感じるホームレスだとします。

コンビニに入り、今日は鬼殺しをちまちま飲んで過ごすか、それともワンカップに手を出してしまおうかと思い悩んでいる横で凄い勢いで肉まんを食べたそうにしている少女がいます。

何の因果か買ってあげると、凄い勢いでお母さんが来て「知らない人に近づいちゃ駄目でしょ」と言って凄い勢いで少女を連れて去っていきます。

善意が無碍にされたような気がして、唐突に虚しさに包まれて、厭世的な気持ちになるでしょう。

しかし、二年後、大きくなった少女が肉まんを持ってきてこう言います「肉まんありがとうございました。美味しかったです」

きっとあなたは「生きてて良かった」と思うはずです。

まあこんな風に生きる理由はなくても、いつかどこかで「生きてて良かった」と思える日が来るかもしれません。それは同時に「それまで生きてきた理由になるんじゃないか」と思います。わたしは「ありがとう」で命を繋いでいた時期がありました。

 

『生きづらさ』を抱えたまま生きている人間を許して欲しいということ

「生きる」という事に疑問を持ってしまうんです。当たり前のように『生きる』ということができない。

私は私なりに生きていくしかない。それは身に染みてわかっている。だから、頑張っているから、「みんな辛いんだ」とか「生きていれば誰もが何かを背負っている」とか「夢を見ろ」とか。なるべく『みんな』をつけて押し付けないで欲しい。

僕らには僕らのペースがあって、しんどいときは『適応』や『逃避』で精一杯だし、調子が良ければ『夢』を見る。

だけど、このしんどさを誰にもわかち合えなくて、苦しいのよ。その分許してくれって甘えちゃうの。生きていくのに正当な理由が欲しいの。生きていく事を肯定する何かが欲しい。でも見つからなくてずっと『生きづらい』それを許して欲しい。『生きる』という事に疑問を持ってしまうことを許して欲しい。

いつか『生きづらさ』が消えるその時まで。もしかしたら消えないのかもな。

そんな気持ちを抱えてますが、一緒に生きていきましょう。

私はどっかで聞いた「生きてみろ、そうすりゃわかる」って言葉好きです。

 

誰かの一助になれば幸いです。
2017/11/21 ロマンチストサラリーマン

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